【Takram渡邉康太郎 × インフォバーン井登友一】サービスデザインは顧客との共創である
人間中心デザイン・UXデザインの分野で、20年以上実務家として活躍してきたインフォバーン取締役副社長 井登 友一が初の単著『サービスデザイン思考』を上梓。出版を記念し、井登が敬愛するTakram渡邉 康太郎さんとの対談イベントを開催しました。「モノからコト」や「価値創造」「ユーザー“脱”中心発想」などのキーワードを軸に白熱した二人のディスカッションをレポートしていきます。
※記事末尾に『サービスデザイン思考』書籍プレゼントのご案内がございますので、ぜひご応募ください。
(以下対談形式、敬称略)
執筆のモチベーションは「デザイン思考ブームの翳り」への違和感
井登:渡邉さん、本日はお付き合いいただきありがとうございます。四半世紀にわたってデザインの仕事に携わるなかで、渡邉さんのお仕事にはずっと注目していました。注目というより、嫉妬に近い感じかもしれません(笑)。『サービスデザイン思考』の執筆にあたっても、ご著書の『CONTEXT DESIGN』には大変インスパイアされました。とにかく文章が知的でポエティックで、本当に美しいんです。
渡邉:嬉しいお言葉、ありがとうございます。『CONTEXT DESIGN』はデザインの王道から少し外れた本なので、デザイナーではない読者が割と多いのではと思っています。『サービスデザイン思考』ではどんな読者層を想定していましたか?
井登:『サービスデザイン思考』では一般的なビジネスパーソン、つまりデザインを専門にしていない人が、自分のビジネスにデザインを取り入れるための入門書を目指していました。というのも、今世の中で捉えられている「デザイン」や「デザイン思考」が、本質からズレて解釈されている印象がありまして。その結果、本来はもっと開かれたものであるはずのデザインが、閉じられた状態で収まってしまっている気がしていたんです。
EDIPTモデルやダブルダイヤモンドに代表されるような方法論的側面だけが一人歩きして、デザイン思考が「管理可能」「予測可能」「必ず成功する」かのような手法として解釈され、苦い思いをした場面が多々ありました。このような誤解に問題提起するために、本書の根幹に据えたテーマが「価値創造」です。『CONTEXT DESIGN』は、価値をどう捉えるかを様々な角度から書いた本だと思っているので、多くのヒントをいただきました。
渡邉:そう言っていただけると嬉しいです。僕からも、返歌ではないですが、井登さんの本の感想をお伝えすると、一緒にプロジェクトに取り組む人たち、特にクライアントの方々に読んで欲しい本だと思いました。Takramの仕事では、都市から飲料・食品、サービスやブランドまで、様々な分野で、様々な人たちとコミュニケーションをとります。デザインアプローチとは何か、なぜこの手法を扱うのか、提案時点で説明しますが、事前に共通認識を確立することまではできません。プロセスが進むにつれ、次第にお互いの認識の齟齬があらわになってくるものです。根本的なマインドセットをどれだけ揃えられるかが肝要なので、この本がひとつの導入になれば、共通言語を構築できそうだと感じましたね。
メディアもデザインも、社会との協働実践
渡邉:読み進めるなかでふと気になったのが、メディアとデザインの関係性です。井登さんの視点を深堀りすると、所属されているインフォバーンという組織が、メディア運営の側面も持っているということも、少なからず影響があるのではと思います。日本には、メディア運営とデザインコンサルティングの二軸を置くファームがほかにもありますが、この2つの領域にはどのような相似や相互作用があると思われますか?
井登:メディアとデザインの専門家が、それぞれの領域に対峙する姿勢は似ているかもしれません。メディアは、テレビや書籍、ラジオのような、日常生活に溶け込んだ媒体やコンテンツであると同時に、社会を構成する「協働実践」なんですよね。メディアは社会によって創られ、社会もメディアによって創られる。メディアの中で生まれた意味や価値が、社会で常識や制度を生み出します。インフォバーンの親会社はメディアジーンというオンライン・パブリッシャーで、現在は「Business Insider Japan」や「GIZMODO JAPAN」を運営していますが、彼 / 彼女らはメディアにかかわる実践者として社会のディスコース(言説)を作るという高邁な理想を持っています。
同じく、デザインという言葉は機能性や合理性を想起させますが、本来の役割はそれに留まりません。デザインされた物体に触れることで「使っているとなんだか楽しい」「ずっと触っていたい」というような感情が生まれ、行動が生まれ、社会に影響が及んでいく。果たす役割は異なるけれども、社会を作り上げていく媒介という意味では、メディアもデザインも同じことをしていると解釈できます。
コトが大事だからこそモノを考える
渡邉:今のお話は、本書の表紙にもある「モノづくりからコトづくりを超えて」という副題に繋がっていますね。「もの」づくりには本質はなく、そこから生じる「こと」こそが本質だという議論も時に見られますが、本当にそうか。プロダクトたるものが目先の課題を解決したり、便利を達成することがある、という価値はもちろんありますが、それを超えて、良い体験をつくったり思い返したりするとき、ものが果たす役割は計り知れません。ものをきっかけに記憶が呼び起こされたり、自分でも気づかなかった感情に目を向けたりする経験を、誰もが持っているはずです。
コンテクストデザインもこの考えと結びついています。大学の授業や社会人向け講座で事例としてよく紹介するのが、ブルックリン在住のアーティスト、エミリー・スピヴァックの『Worn Stories』という作品です。この写真集の表紙には、親指くらいの大きさの穴が空いた紫色のセーターが映っていて、なぜ穴ができたのかという理由が本文で語られています。持ち主である女性は大学に勤めながら生後間もない赤ちゃんを育てている。ある夜授乳してると、赤ちゃんがミルクを吐いてセーターが汚れてしまった。セーターを脱いで赤ちゃんのケアをしていたら、疲れてそのまま眠りに落ちる。翌朝目を覚ますと、脱ぎ捨てたセーターに穴が空いている。夜の間に、ミルクの汚れをネズミが齧りに来ていた、という顛末です。
一見、ただの着古された洋服たち、もう着られることのない「用のない服」たちが、ライフストーリーとともに語られることで作品に変わるというのがこの一冊の面白さです。自分のことを表現者として認識していない人であっても、世界にひとつだけの服の物語を語った瞬間、表現者になってしまう。このときに、ただエピソードが語られるのではなくて、洋服のビジュアルが添えられていることも重要です。ヨレヨレで穴のあいたセーターに視覚的に触れることができるかどうかで、感じ方はガラリと変わる。ものは、とても大きな「語る力」を持っています。
井登:まさに、副題の「モノづくりからコトづくりを超えて」に込めたのはそういう想いです。近年では、半ば常識のように「モノからコトへ」「モノには価値がない」「モノを通して得られる経験、すなわちコトにしか価値がない」という風潮が根をおろしています。特に製造業では当事者ならではの危機感からそう思い込む方が多い。
「モノからコトへ」だからこそ、モノがしっかり作られていないと、コトが誘発されないんですよ。なぜなら、革新的な「コト」を生み出す、もしくは既存のアイデアを捉え直して新しい価値を提案するとき、多くの生活者には、すぐにその価値は伝わらないからです。最初は自分のためのサービスだと認識しない。そこを「モノ」が媒介して、身体とモノが繋がってはじめて、「心地いい」とか「便利」という感情に引き摺り込んでくれる。コトが大事だからこそモノを考えるという姿勢は、現場のメンバーにも大事にしてもらっています。
真の価値創造は、ユーザーを人間として捉えることから始まる
渡邉:この、ものの話とサービスデザインが僕の中で繋がるのは、「茶道」なんです。茶道ではものが本当に重要で、茶碗、お菓子、掛け軸、選んだりつくったりするものすべてに意図を込めます。また、ひとつの道具が、歴史やものがたりを帯びていることも多々あります。
以前、伊達政宗が使っていた茶碗を見せてもらったことがあります。見るだけで緊張するのに「(茶碗を)持っていいよ」と言われて。ビクビクしながら手にしたら、今度は「右目をつぶってごらん。そこに広がるのは、独眼竜政宗が見た景色だよ」と。大興奮しました。ものを通して、500年前を生きた武将と同じ世界を見る。ものの力によってイマジネーションが広がります。
少し逸れますが、連想すると、茶事はすこぶるサービスデザイン的な営みです。客に良い体験を提供したいならば、良い水屋が必要です。受け手、つまりユーザーサイドの体験や視点を尊重しながら、ビジネスサイドの体験も構築しないといけない。サービスデザインにも、その両面が必要です。
井登:茶道では、亭主がもてなす側、客人はもてなしを受ける側という役割はあるけれども、客人はただ単にもてなしを受けるのではなくて「自分がどのようにもてなされているのか」という解釈が必要。サービスデザインと同じで、価値共創なんですよね。価値共創という言葉には、ワイワイ楽しく一緒にやりましょう!というようなイメージがあるけれども、実際はすごく怖い概念で、どちらかが圧倒的優位になると成立しない。文化、礼儀や作法を共有して、お互いに葛藤して高め合っていくことが根幹になります。
渡邉:まさに、価値共創の本質も茶道と通底しています。たとえば、千利休以前の茶道は、茶入や茶碗など、希少性の高い道具を見せることがもてなしの形だった。一方で利休は、あえてものを不足させるようなことや、日常的な生活道具を用いることをしました。誰もが価値が高いと合意できる希少な道具ではなく、自分と相手の関係のなかで初めて価値が成就するような道具を用いた。受け手側の想像力と知性を信じていたんですね。これは、何を重んじて何を見せるかにおいてのイノベーションでした。
利休の有名なエピソードで、朝顔の話がありますよね。朝顔が満開という噂を聞きつけた秀吉が利休の庭を訪れると、1本残らず摘み取られていて落胆する。ところが茶室に入ってみると、例の朝顔がたった一輪だけ生けられている。
このエピソードからは、真の価値創造は受け手と送り手が両方参加することで完成するという本質が読み解けます。茶室に入った瞬間、一輪だけ生けられた朝顔を見て、秀吉の中には「なぜ利休はこんなことをしたんだ?」という問いが生まれますよね。問いに向き合うことで、秀吉は自らの想像の世界へと誘われる。秀吉は、一面の朝顔を目にするのではなく、自分の想像力によって胸中に花を咲かせることになったんです。生けられた一輪の朝顔が、イマジネーションへの招待状なんです。「すごいものを見に来い」ではなく、「一緒にすごいものを想像・創造しよう」というインビテーション。
井登:単にユーザーが求めるものだけを提供しても、満足はしてくれるけど何も生まれないということですよね。ユーザー中心に固執すると、ユーザーは愚鈍化し、長い目で見ると企業にとってもプラスではないし、誰も幸せになりません。『サービスデザイン思考』では、できるだけわかりやすくそのことを書いたつもりです。
渡邉:人間の潜在能力を引き出せるかどうかですよね。例えば、山口県の高齢者施設では、バリアフリーの真逆となる「バリアアリー」設計を導入して、事故が減ったそうです。高齢者が自分で考えて、選択するデザインによって、能動的に行動する力を引き出した例です。
井登:こういった例では、ユーザーを記号的な存在ではなく「ひとりのかけがえのない人間」として捉え直すことが鍵になっていると感じます。「ユーザー」という概念は、近代の大量生産・大量消費モデルの中で生まれた 「製品・サービスをユーズする人」という意味です。この10年ビジネスで求められているのは、ユーザーというフィルターを超えて、その向こう側にいる「人間」にとって本当に良いことを提案することだと感じます。価値創造における関係性を考え直すということですね。
渡邉:価値創造をその関係性で捉え直すと、評価の時間軸も変わってきますよね。企業では「イノベーションを起こすこと」が目先の目標になりがちですが、イノベーションは短期的なものではない。製品が生まれ、人々に受け入れられ、社会の在り方まで変わるという長いプロセスを経たあとに、振り返ってはじめて「あれがイノベーションだった」と言える。
井登:まさに同感です。イノベーションはすぐに起こせるものではないし、デザインは「最短距離でイノベーションを起こす道具」でもないです。「愛されるモノ・サービス」を作りたいとおっしゃる企業の方とは、機能性や合理性といった側面を超えたデザインを実践していきたいですね。
『サービスデザイン思考』プレゼントキャンペーン
渡邉さんと井登ならではの、経験に根付いた具体と抽象を往復する刺激的な議論が花開いた90分でした。
本記事をお読みいただき『サービスデザイン思考』にご関心をお持ちくださった方へ、抽選で毎月1名様に本書をプレゼントいたします。(当選のお知らせは発送をもって代えさせていただきます。)
下記フォームよりお申し込みください。
https://idl.infobahn.co.jp/campaign_sercivedesignthinking
(月末にご応募を締め切ります。プレゼントキャンペーンの終了に関しては本記事、またはフォームにてお知らせいたします。)